奥の院
場所:和歌山県伊都郡高野町字高野山
高野山は凡そ1170年前の昔、弘法大師によってひらかれた。紀州の山深く、海抜1000mの山上にあって、東西6km、南北3kmの台地に120余の堂塔加藍は多くの国宝、重要文化財に輝いており、戦国の大名、貴族から庶民にいたる万余の墓石にひろがる奥の院は、流転の人生と興亡の歴史の縮図とし、強く心をうつ、日本仏教の一大聖地である。
弘法大師は宝亀5年6月15日、善通寺でご誕生なされた。父は国司佐伯善通卿で、母の玉依御前は伊予親王の学士阿刀大足の妹である。15歳の時伯父阿足大足に伴われて京都に上り、18歳で大学に入り、20歳のとき和泉槙尾山寺にて出家得度した。延歴23年、桓武天皇の勅許を得て唐に渡り、唐の都長安において、唐の国師である青竜寺恵果阿闍梨の仏門に入り真言密教を学んだ。留学2年で帰国した。
帰朝ののち大同元年、九州博多に東長密寺を建立され、次いで和泉槙尾山に移り、京都高尾山の神護寺に移られた。弘仁7年、大師都は都塵をさけた深山幽谷の地高野山に鎮護国家と衆生利益の道場を建立したき旨を嵯峨天皇の上奏してこの地を賜った。同年直ちに弟子泰範と実恵を登山せしめてまず草庵を結ばしめ、翌年大師は高野山に登り、大塔の地を中心にして加藍の造営を始められた。
弘仁14年、嵯峨天皇は勅して平安京の守護寺東寺を賜ったが、天長9年大師は東寺、高尾山を弟子に托して高野山に入り、加藍の建立に専念された。承知2年2月、高野山の造営が始められて20年にして金剛峰寺は定額寺となったが、この年の3月21日寅の刻、弟子たちに25ヶ条の遺告を示されて、予て宣言の通りご入定された。
その後は高弟真然大徳が中心となって加藍の造営が進められた。
総本山金剛峰寺は文禄2年、豊臣秀吉が母公の菩提寺として、応其上人によって建立されて青巌寺とされていた。今の建物は文久3年に再建された。明治初年、金剛峰寺と改められた。
金剛峰寺
高野山 金剛峰寺
こんごうぶじ